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長崎市内の石垣その1 野面積み(のづらづみ)
長崎市は約400年前の江戸時代から天領となり幕府直轄で地元の殿様 不在となり悲しいかな長崎城は存在しない。 城壁が無い町なのである。
坂本龍馬が歩いたと言われる古道や亀山社中(日本初の商社)跡の周辺は石畳で素敵であるが坂道であり狭い道路の右も左も石垣ばかりである。 反対に城壁である石垣は大村市や島原市や福江島(下五島)に行かないと現存していない。
松浦市や上五島には中世の山城の城跡の石垣(朝鮮式山城)が各所に 所在している。 元寇征伐で有名な松浦党の城の石垣跡等は上物が無い状態で荒廃した 石垣が残っている。
その様な石垣で囲まれた建物跡地は食糧難であった大東亜戦争の際には畑として利用されて、その石垣達は段々畑の土留め扱いであった。
参考までに長崎市の旧佐賀藩の深堀氏の武家屋敷跡の石垣は石塀であって、武家の防火の為、防犯の為、延焼防止の為のそれである。
今回述べる石垣はあくまでも地盤の一部の擁壁である。
因みに、西海市付近の石塀は結晶片岩というまた変わった石積みでありこれはまたの機会に述べる。
江戸幕府直轄前の長崎甚左衛門時代は大村藩の言わば長崎出張所の所長的な役割であり桜馬場に居城があったが、戦の為の居城では無く石積で盛土を支え、平場を作り平山城とまではいかない平地であった。
現在は長崎市立桜馬場中学校になっているから石垣のみ現存しているが、明治,大正,昭和で各所の補修がされている。
損害保険で言うところの原状復旧では無く、機能的な原状復旧であり、崩壊した石垣の補修方法はその時代の積み方である。
傾斜地の多い長崎市内はその石垣の殆どが野面積み(のづらづみ)である。 同工法は自然石を加工せずにをそのまま積上げる方法である。
対して、段々畑の簡易な石垣のそれは『廃石荒積み』といい、畑の 土砂の土留めである。
長崎市内の野面積みは斜面が多すぎて盛土や切土を施して平地を造成しその擁壁として天然石を積み上げる。
江戸時代、長崎市内にはその野面積み専門の石工が存在していた。
現在は需要が無く消滅している。 …続く 令和7年11月25日
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