諫早石と擁壁 古き良き歴史と文化の長崎市内、そこは傾斜地が故に擁壁だらけである。 旧県庁跡も高さ10m程の石垣の擁壁で土留めを施している。 その石積みは『野面積み』(のづらづみ)と言い古の石工(いしく)が自然石を加工せずに積上げている。 採石場から切り出したままの石である。
それぞれの石の大きさは不揃いであり、その隙間から雨水が排水される為大雨でも崩れにくい。現実に江戸時代のそれが現存している。
コンクリート擁壁の水抜き穴機能が自然に備わっている。 ちなみにコンクリート擁壁の水抜き穴に缶ジュースの空き缶がいたずらで突っ込まれている。やっちゃいけない事である。
日本の文化の中心である長崎市の石垣はその半分くらいが長崎市内の 石材で半分くらいは諫早石である。 長崎市内のそれは『西海石』と呼称されているが、似て非なる石材である。
諫早市は旧佐賀藩,鍋島,龍造寺家の流れの諫早氏の居城があり、長崎市と藩が異なる。長崎市は元々大村藩であり、出先の出張所の長崎甚左衛門の居城跡で確認出来る。 江戸時代から幕府直轄の天領となり、同じ長崎県でも諫早と長崎は微妙に文化が異なる。 理由は江戸時代前は藩が違い、殿様が違い、諫早藩の石材は使えなかったが徳川幕府になってから長崎市内の一部だけ(出島を含む)大村藩から天領になり幕府として隣藩の石材が輸入使用可能となったらしい。 ※諸説あり…
明治政府になって洋館が出来たり近代化してその歴史と習慣が和洋折衷となり短期間の歴史的な石積になっており、野面積みの上に明治時代の加工した石組があったり、その上に昭和のコンクリートを打設し、ブロック塀を施工しているところもある。 なんと江戸、明治,大正,昭和,平成の合体した擁壁 である。
諫早市内で採れる天然石のそれは固い岩盤の山を発破(ダイナマイト)で爆発させて採取している。 令和の時代もまだ諫早石の需要があり、水成岩で加工しやすくその割肌の素敵な感じは宇都宮の大谷石と勝負する。
表面硬さの関係いわゆる床石としては綺麗な上品な緑色の大谷石では無く諫早石の出番である。 因みに栃木県の『モビリティリゾートもてぎ』にレースの関係でよく行くが 移動中に贅沢にも大谷石をふんだんに使った門塀の住宅を見る。 高級な大谷石も栃木県ではブロック塀感覚で使用されている。 栃木県民は金持ちなのかといつも思う。
郷土の自慢では無いが、磨いてもザラザラとしており吸水力に優れ、 歩道の敷石に使われている諫早石は大谷石には値段では負けているが、 雨模様の天気に濡れた石畳を歩くと 『長崎は今日も雨だった』の前川清の歌が流れそう。 令和7年3月20日
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