奄美大島の現場立会その1
アマミノクロウサギ 改め、アマミの茶髪女子
平成2年(今から35年前1990年)9月、台風と水害の広域災害で福岡空港から鹿児島空港~奄美空港へ飛行機に2回乗って現地入りした。 福岡市と違い、暑さと湿度が凄い。 亜熱帯地方だからと思われる。
なぜか天然のハイビスカスの花を見た記憶は無い。トロピカルの居酒屋の女性の髪飾りで赤いハイビスカスを見かけただけであった。
因みに、奄美大島の人にどこから来たの?と聞かれ、福岡市からと言ったら ああ、本土から来たんですねと言われた。 アメリカに戦争に負けて沖縄はアメリカにとられたけど、奄美は日本のままだったとかの話をタクシーの運転手が語る。
名瀬市(現在奄美市)という繁華街に先輩鑑定人がうじょうじょ居た。 繁華街を歩けば鑑定人に当たるくらい。東京、大阪、名古屋、広島 福岡の鑑定人の応援軍団達ばかり。
東京研修でお世話になった鑑定人の皆様、そして東京の同期の鑑定人、早朝から昼間は現場で忙しいが深夜は飲み会で忙しい。
ATMが名瀬市の鹿児島銀行しかない。当時そこにはコンビニが無い。 地元のスーパーはあったが金を降ろすのは同銀行しかない。 名瀬市は中核都市であったが、ちょっと南に行くといきなりカントリーになる。 インターネットは当時無い。通信手段に携帯電話も普及していない。 固定電話と公衆電話、ホテルのFAX、対策本部のFAXであった。 当時サラリーマン鑑定人であり、会社の命令でとある保険会社の対策本部に 赴く。○○海上火災奄美大島出張所だったと思う。 なんと2階建てなのに鉄筋コンクリートである。 台風の影響を回避する為のビルであろう。 西郷隆盛公は奄美大島では英雄であり、『西郷さん』と言って 愛加那さんという奄美の現地妻と暮らしていたらしい。 アメリカのグラマンの襲撃した石垣や建物など戦時中の遺構がたくさんあった。 あまり石垣に近づくとハブが居るから危険であるとか教えてもらった。
南沙織さんの出身地であるせいか卵型の顔で少々日焼けした素敵な 女性達が多かった。 居酒屋の綺麗な女性スタッフが昼はウインドをして夜働くというと宣う。 ウインドって何?と聞くとウインドサーフィンのことらしく、 時計は防水のダイバーズウオッチをしていた。
その時計に白い粉が固まってついていたから事情聴取すると、 今日海で使ったまま洗ってなかったとshe said.
おい、シャワー浴びてないんかいと質問したかったが、何分美人であり、 海水のにおいがするパサパサの茶髪がかっこよかった。
居酒屋やスナックにいっても南国の美女ばかりであり驚いた。 1年中暑いから汗をかいて新陳代謝がよく、やせた美女が多いと感じた。 この名瀬市は食事は何でもあり、飲み屋も多く、焼き肉屋も多数存在した。 先輩がトロピカルな魚は食べたくないと言い安価な焼肉屋によく行った。 先輩とは上司であり南国で魚では無く肉ですかとは言えなかった。
令和7年3月22日(土)
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